1918年から行われた多摩川の河川改修工事の一環として川崎市を縦断する運河を建設する計画がありました。その過程で1928年に竣工したのが川崎河港水門です。鉄筋煉瓦造りであり多摩川の河口付近にパリの凱旋門のような威風堂々とした存在感を放つ外観は川崎の街の水運を担う運河の表玄関として存在し続けていくはずでした。しかし、経済・社会情勢の変化や戦争により運河の建設計画は頓挫。建設中だった運河は埋め立てられて、その後は水門とわずかな船溜りだけが残されました。今回はそんな残念な歴史を辿ってしまった川崎河港水門を訪れてみたいと思います。
現地までの道程
現地までは品川から京急本線を横浜方面へ進み、京急川崎駅で下車。大師線へ乗り換えます。最寄り駅は京急川崎駅から1つ目の港町駅、2つ目の鈴木町駅のいずれの駅からも徒歩8分程度で行けますが、当日は後述する水門の建設経緯ととても繋がりが深い鈴木町駅の方を利用しました。(ちなみに後で知ったのですが、港町駅は日本コロムビアの旧川崎工場があった場所で、所属歌手だった美空ひばりの歌碑などがあるようですね。こちらはこちらでとても興味深いので、機会があれば是非訪れたいです。)
鈴木町駅に到着して改札を出ると向かって右側に踏切があり、渡ればすぐに味の素川崎事業所(旧川崎工場)の正門があります。1914年(大正3年)に設立された大規模かつかなり歴史の古い工場で、工場用地内のため関係者以外の立ち入りができません。またこの鈴木町駅も味の素の敷地内に立地しています。
この鈴木町駅の駅名の由来は味の素の前身である合資会社鈴木商店(双日の前身であるあの鈴木商店とは無関係)の創業者・鈴木三郎助氏の苗字から取られています。周辺に住む一般住民も利用しているものの、利用者の大半は味の素の工員なので実質的な味の素の従業員専用駅と言えるのかなと思います。
鈴木町駅を出て先ほどの踏切とは反対方向へ左折してすぐの交差点を右に。向かって左にイトーヨーカドー、右側に「味の素グループうま味体験館」という見学施設と味の素の社屋群が続き、周辺はさながら味の素の小さな企業城下町のような様相を醸し出しています。味の素の歴史はもちろんのこと、うま味食材や調味料の紹介、味の素の製造工程などの見物ができる体験型施設のようです。この日は時間がなく立ち寄りませんでしたが、別の機会があれば立ち寄ってみたいですね。
しばらくして橋を渡ると右側に水門が見えてきます。この辺りになると周辺はコンクリート製造工場や倉庫など殺風景で何だか埃っぽい雰囲気。次の交差点を右に曲がり、大師線の高架をくぐった先に多摩川の堤防が見えてきます。その間、右に目をやると水門の特徴的な頭頂部に度肝を抜かれます。
そうこうするうちに川崎河港水門に到着。全景と周辺はこんな感じです。
頂部にあしらわれたユニークな装飾
上述した2つの水門の支柱の頭頂部にあるユニークな装飾の彫刻。これですが川崎市のかつての農産物である葡萄や梨や桃がいっぱいに入ったカゴ(フルーツバスケット?)彫刻があしらわれていると言われてますが…う〜んパッと見る限りカリフラワーやブロッコリー?はたまた木魚のように見えなくもないでしょうか。
その頭頂部の彫刻の下。両側面には川崎市の市章があしらわれていました。また水門を構成する2本のタワーの縦に走る溝はまるでパルテノン神殿やエジプトの神殿の柱をイメージさせてくれます。
ちなみに、2本のタワーの間を繋ぐ梁には以前はエジプト風の船のレリーフが描かれていましたが、現在は消えてしまっています。
夢の運河計画と水門の建設・味の素との浅からぬ関係
この水門ですが、現在の土地所有者は川崎市となっていますが、その周辺は味の素株式会社の管理地となっています。ただ、現市有地である水門を挟んで東西に分かれている味の素の工場も水門の建設以前は水門周辺も含めて全てが味の素が所有する土地でした。
明治末期以降に川崎駅周辺や多摩川の下流域一帯には大規模な工場が次々と進出しました。大正以降には川崎港が整備されたこともあり、今後川崎市は工業地帯としてより発展することが見込まれましたが、当時の多摩川は大雨が降る度に洪水や氾濫を繰り返し、堤防の決壊や橋の流出など甚大な被害をもたらす「暴れ川」と呼ばれ、河川の改修が喫緊の課題になっていました。1924年(大正13年)に内務省(現在の国土交通省)は多摩川の堤防改修工事を行いました。また物資の輸送を円滑にするために多摩川の堤防の一角から川崎市内の内陸部へ運河を建設し、掘削等で生じた土砂を利用して河川や海岸を埋め立てることで住宅や工場、商業地を増やしていく壮大な運河・港湾計画が立てられました。
川崎市周辺の地図から運河の計画ルートを示すとすれば、以下の通りとなります。
これを見て分かる通り、かなり壮大な計画だったことが伺えますよね。
これらの計画を取り行っていた多摩川改修事務所の当時の所長を務めていたのが、内務省の官僚で河川技術者の金森誠之(かなもりしげゆき)氏(1892-1959)です。水門の建設構想を川崎運河の計画とともに多摩川沿いに工場を所有していた味の素へ相談をしたところ、味の素から水門の建設用地と建設資金の寄付を受けることになりました。しかし水門の建設により堤防の一部が切れてしまう懸念がありましたので水害を防ぐべくより強固な水門を作る必要がありました。そこで採用されたのはすでに金森氏自ら特許を取得済みだった金森式鉄筋煉瓦(煉瓦造りの中に鉄筋を入れ込んだ工法)やまさかり杭といった関東大震災を教訓として耐震性を高める効果が期待される新しい工法でした。上部の水門のタワーの部分は鉄筋コンクリートで、下部は鉄筋煉瓦で強固な堤防として整備しています。総工費は約54万円、約1年半かけてこの水門を完成させました。
夢の運河計画は幻に…そして水門は残された
しかし、水門は完成したものの運河の建設については紆余曲折の後についに実現せずに幻となってしまいました。
そもそも運河の建設予定地は建築制限が無い地区でした。そのため、次々と住宅や工場が建設されて用地買収と確保が難航。さらにその後の大恐慌による経済の悪化と第二次世界大戦による戦時体制の強化から当時の社会情勢や国益に合わなくなりました。総工費約600万円という壮大な「水の都川崎」計画はこうして廃止され、後には水門と船溜りだけが残されたというわけです。
ちなみにこの金森氏ですが、東京帝国大学を卒業後に内務省に入省し、利根川の第二期改修工事に従事。その後、多摩川改修事務所に勤務し、1924年(大正13年)から1931年(昭和6年)まで(途中の1年間の欧州出張を挟む)の間所長を務める中、この水門の設計を手がけます。その後1940年(昭和15年)東京オリンピックの漕艇競技会場として現在の埼玉県戸田市の戸田公園付近を提案し、その後後進へと受け継がれて戸田漕艇場として整備されることになります。内務官僚でありながらも土木技術における独自特許を次々に生み出した発明家でもあり、そのバイタリティさは本業以外でも発揮されて、時に映画人として土木技術者にフォーカスした映画作品のメガホンを取るなど映画監督に至るまで携わったり、社交ダンスを愛好するあまり社交ダンスを力学的に研究して入門書を出したり、本業の土木技術者として一流なのはもちろんなのですが、趣味に至るまでの徹底的なこだわり様は、現代で言うところのかなりの「オタク」だったように思えますね。その他、東京都大田区にある自邸(下記写真)を自ら設計しています。こちらも金森氏のライフワークである鉄筋煉瓦で施工しており山王の住宅街に現存しています。
運河の名残りを探したが…
こうして「水の都川崎」計画は廃止されたのですが、先述の通り、運河の名残りは最近まで水門から約80mほど残っており、船溜まりとして船の待避スペースとして利用されていました。また千葉方面から砂利の運搬船が1日数隻出入りして陸揚げに使われており、付近の工場などへ供給されていたものと思われます。しかし、2019年10月に発生した台風19号で水門の周辺で浸水被害が発生。同時にこの年に水門を通る船がゼロだった事もあり、新たな浸水対策により水門に止水壁が設けられることになりました。それに伴って船溜まりも不要と判断されたのでしょう。
今回訪れた2024年1月の時点。船溜まりはまさに埋め立ての真っ最中。しかしわずかながら岸壁と水辺の名残を見ることができました。ただこの風景もやがては跡形もなくなってわからなくなってしまうのでしょうか。
夢のその後
経済情勢・社会情勢の変化や戦争の歴史に翻弄された公共事業の負の遺産のような側面を持つ一方で、その豪華な装飾と当時としては斬新で頑強な意匠と構造で多摩川の河口の凱旋門として存在し続けてきて、その傍で犬の散歩やジョギングに勤しむ市民の姿…その風貌がすっかり河畔の景観に溶け込んでおり、長く川崎市民に受け入れられ、愛されてきた様子が垣間見えられます。
また、鉄筋煉瓦構造を確認できる希少な遺構であり、かつての大運河計画の存在を物語る希少な歴史的遺産として、またその優れた意匠デザインが評価されたことにより、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録されました。
見学を終えて多摩川の川辺を見やると釣り人やモーターボートを操船する人がいて、空は晴れてて牧歌的な雰囲気でした。
今回ご紹介した川崎河港水門の他にも多摩川周辺には金森式鉄筋煉瓦が採用されている水門や土塀等が遺構として点在していますので、今後も機会あれば訪れてみたいと思います。
外部リンク
所在地およびアクセス
- 所在地 神奈川県川崎市川崎区港町66番地先
- アクセス 京浜急行大師線鈴木町駅もしくは港町駅から徒歩約8分