東京都北区と埼玉県川口市との境を接する荒川。その荒川と隅田川との分岐点の付近に赤色と青色の2基の巨大な水門、岩淵水門があります。青い水門は1982年(昭和57年)から現在まで現役の岩淵水門(青水門)。それとは別に現役を退いた旧岩淵水門(赤水門)が現在でも残されています。赤水門は1924年(大正13年)に竣工したRC造の水門です。関東大震災にも耐え、大雨等で荒川の上流からの流量が増加した際に水門を閉めて隅田川への水の流れを防ぎ、広大な荒川の下流へ水を迂回させる事により、東京を水害から守ってきました。
この2つの水門は荒川を渡る際の風景の一部として溶け込んでおりとても親しみがありますが、東京の治水における「最後の砦」と言うほどの重要な建物であることは普段は意識する人は少ないと思います。
今回は旧岩淵水門からみた東京の治水の歴史について考察していきたいと思います。なお、この内容を考察するにあたって、旧岩淵水門とは切り離せないものとして荒川(荒川放水路)の存在があります。こちらは本記事だけでは収まりきれないため、別の記事で改めて歴史を考察したいと思います。
現地までの道程
JR赤羽駅東口を降りて向かって左を見ると一番街という昼飲みの聖地なる商店街があります。この飲み屋街が軒を連ねる通りを抜けると、東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅の入口あたりに至ります。
この辺りは日光御成街道(別名:岩槻街道)の岩淵宿と呼ばれた旧宿場町であり、明治以降に鉄道が敷設されるまでは近隣の赤羽よりも栄えていた地域でした。その名残なのかもしれないのですが、岩槻および日光・足尾方面へと続く国道122号(通称:北本通り)と環状8号線とが交わり、平日・休日問わず多くの車で混雑している赤羽交差点を中心に付近は旧宿場町を思わせる木造建築がところどころに目につく地域でもあります。この辺りは戦災を免れた地域でもあるので街そのものが昔の地割りで独特な雰囲気を感じますね。
この岩淵町の町名ですが戦前から続く旧町名の名残りです。現在は丁番のない単独町名ですが、住居表示施行以前の旧岩淵町の時代は1丁目と2丁目が存在していました。しかし1964年(昭和39年)に当時の北区がこの地域の町名を近隣の「赤羽」で統一する方針を示します。これに対し代々受け継いできた町名が消えることに反対した地元住民が述べ8年に渡る反対運動を繰り広げた結果、北区は住民の訴えを一部受け入れる形で和解。旧1丁目のみを「岩淵町」として残したという経緯があるのです。
道中に大通りから一歩路地へ入ると八雲神社という由緒ある(ありそうな)社がありましたので立ち寄ってみました。江戸時代の岩淵宿の鎮守とのことなので、こちらも宿場町の名残と言えますね。
環八と分岐する赤羽の交差点から北本通りを5分ほど北上すると、新荒川大橋の入り口に差し掛かります。橋のたもとに交番があるのが見えます。対岸の川口市側にも同じように交番があるので、おそらく戦後のドサクサに乗じて闇米の都内へ持ち込みする輩を取り締まってた時代の名残なのかと思われますね。
ここで真っ直ぐ橋を渡らずに右に曲がります。さらに5分ほど歩くと荒川と並流する新河岸川にかかる歩道橋があったので、それを渡ります。渡った先は荒川の河川敷です。
見えてきました。新旧2基の水門が並存してる風景って何だか凄くレアだと思いませんか?
現物の水門の高さと過去の洪水の高さとを比べてみる
役目を終えた赤水門です。向かって左から1番ゲートから5番ゲートまでありますが、一番右の5番ゲートは通船のため1960年(昭和35年)に改造しています。現在はウッドデッキが設置されていて、水辺と水門のすぐ近くまで近づくことができます。
ウッドデッキを歩くと途中で戦前から現在までに起こった主な台風や大雨による荒川の洪水記録と実際に増水した水かさのランキングが示されているモニュメントのようなものがあり足を止めました。
過去に増水した事例は幾度もあれども…その中でもカスリーン台風の8.60mって…水の量がかなり凄まじすぎて想像つかないですね。昭和22年…私が生まれるはるか以前の出来事です。赤水門の5つの遮水壁の高さが約9mですので、辛うじて都心を水害から守ったのだとは言えますが、この前例もあって後述する事情で高さの面で水害に対応できないと評価されて、その役目を青水門へ引き継いでゆく事になるのです。
水門の裏手を散策すると歴史が垣間見えた
堤防を駆け上がって水門の裏側へ回ろうとしたところ「摂政宮殿下 御野立之跡」と書かれた石盤を発見。
「摂政宮殿下」とは大正時代に皇太子だった昭和天皇のことを示しています。大正天皇は生後間も無くして髄膜炎にかかるなど健康状態が悪く、一時的に回復したことで天皇に即位はするものの再び病状が悪化したため、1921年(大正10年)に皇太子が摂政に就任して大正天皇の公務を代行されていました。石盤はこの間の1924年(大正13年)に赤水門が竣工した際にこの地を行幸されたことを記念して作られたものとなります。この水門の事業が当時としていかに重要だったのかが伝わりますね。
水門の裏側は橋になっていて対岸と結ばれています。赤水門から現行の青水門へ引き継がれて新たな流路を確保する必要が出てきたため、赤水門の現在の対岸は削られて島になっています。
マップから図示すると以下のようなイメージです。
対岸の島に到着しました。正式名は荒川赤水門緑地(中之島)と言うそうです。奥へ行くとこのような石碑がありました。
「農民魂は先ず草刈から」
これは1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけてこの近辺で行われた全日本草刈選手権大会を記念して戦後に建てられたものです。全国から約四万人もの草刈りの精鋭たちが集まって、2時間に渡り草刈りの技術(速さ?)を競ったのだとか。ただ実際は「精鋭」という名の半強制があったのか無かったのか議論がなされる所ですが、「両岸に観衆溢れ旗指物なひいて一世の壮観であった」とは実際にどんな風景だったのか見てみたかったものです。太平洋戦争の激化により1944年(昭和19年)を最後に中断しており、それから現在に至るまで開かれていません。
一方、その草刈の碑の横には「月を射る」という名の造作物があります。これは遺構ではなく最近作られたオブジェのようですね。
老朽化だけではなかった…赤水門が直面した致命的な懸念点
ところで先程の島へ通じる橋を渡る途中に戻り、下流側を見やると現行の岩淵水門である青水門も見えます。
青水門の先は隅田川。つまりここを起点としています。大雨などで増水した際に水門を閉じて荒川放水路へ水を迂回させる事で都心を水害から守るのです。
では、なぜ赤水門は現役を退いたのか?公式には老朽化も一因としていますが、赤水門が竣工し運用開始した1924年(大正13年)から荒川の基本計画が改訂され青水門の建設が決まったのが1973年(昭和48年)で、その間は50年弱ですので老朽化とは一概に言い難い…それ以上に赤水門が引退を余儀なくされた大きな理由、それは地盤沈下による高さ不足です。
東京都区内の東部下町から北部にかけては水運に恵まれたことにより戦前から工業が発達していました。また被圧地下水が豊富で工業用水としての需要が高まりました。しかし過剰な水の汲み上げにより広域に地盤沈下を引き起こし、海抜ゼロメートル地帯が形成されました。水門付近も1960年(昭和35年)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施されました。しかし、先述の通り荒川の基本計画の改訂により高さ不足が生じたことから、赤水門の位置から300m先の下流に新たに青水門が建設されることになり、1982年(昭和57年)に青水門が竣工、赤水門の役割は終わりを迎えたのでした。
解体方針から一転して保存、そしてこの地域のシンボルへ
東京の治水の重責を青水門へ引き継いだ後、役割を終えた赤水門はすぐに解体される方針でしたが、地元市民や土木学会からも保存を求める声が大きくなり方針を転換、子供たちの学習の場や人々の憩いの場として保存されることになりました。
後に土木建造物としての価値が再評価された旧岩淵水門(赤水門)は、1995年(平成7年)には産業考古学会により推薦産業遺産に、また、1999年(平成11年)には東京都選定歴史的建造物に選定されました。
ところで、この赤水門ですが、赤羽や川口にゆかりのあるアーティストにより舞台として歌われています。
たま「かなしいずぼん」
赤水門にさらわれて
たま「かなしいずぼん」(作詞:知久寿焼)より引用
ぼくらはいなくなっちゃった
まっしろい花で飾られた
四つも葉っぱをたべちゃった
かなしいずぼん
真心ブラザーズ「荒川土手」
ああ 今日も一日が終わる
真心ブラザーズ「荒川土手」(作詞:YO-KING)より引用
荒川土手まで散歩にきてみた
向こう岸の工場が夕日でまっかっか
こうもりが空を飛び 犬が歩いてる
赤い水門見ながら 口笛吹いて帰ろう
赤い水門見ながら 口笛吹いて帰ろう
エレファントカシマシ「土手」
ああ このまま眠ってしまうの
草のにおいの 土手のところで 土手のところで
そばにいて 笑って
そばにいて 眠る・・・《中略》・・・
ああ めまぐるしい朝がくる 向うの空がかすむころ
エレファントカシマシ「土手」(作詞:冨永義之)より引用
風の音も消えて
また真っ白からはじまる
歌詞の中で直接的に水門の名称は登場していませんが、岩淵水門付近の風景を題材にしているそうです。
地域のシンボルとして何気なく日常の風景に溶け込んできた赤水門ですが、とても重要な役割を果たしてきた建造物だということがお分かりいただけたかと思います。次回「東京を水害から守った最後の砦」のシリーズ続編として、赤水門が果たしてきた治水の歴史を語る上で切り離すことができない荒川放水路について考察をまとめたいと思います。乞うご期待。
所在地およびアクセス
- 所在地(赤水門) 東京都北区志茂5-41
- 所在地(青水門) 東京都北区志茂5-41-2
- アクセス 東京メトロ南北線赤羽岩淵駅もしくは志茂駅から徒歩約17分